社会と世界はイコールではないと異議申し立て

社会と結びつかないじぶんの思いを綴った日記です

aikoがすきなひと

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暖かくなってきたので、仕事の帰りにコンビニでワンカップを買って外で飲む。向かいのマンションの階段でタバコを吸う人と目が合い、共犯者のような親近感をおぼえる。こちらに降りてきて一緒に語りましょうよ、という笑顔を向ける。でも、彼はすぐに光の家の中に入ってしまう。

用事があって渋谷Bunkamuraへ。うろうろしていると、Bunkamuraの映画館の上映情報が目につく。数年前、何回かセックスをした年下の男の子が強くすすめてくれていたのに、結局見ていない映画が4月から特別上映するようだった。文化的な場所に行くと、たいてい彼が語っていた作家・アーティスト・映画にまつわるものに遭遇する。その度に私は彼のことを思いだす。彼のかびくさい家の本棚につまったたくさんの言葉や写真や絵画のことを思いだす。彼の家のベランダで干上がっていた洗濯物とサボテンのことを思いだす。彼の文章力や創作意欲に嫉妬していた昔の自分を思い出す。彼が自分の作品を持って文学フリマに行く日、「たぶんこの仕事をしたら自己嫌悪で死ぬだろう」と思ってやりたくない仕事を断ったことを彼は知らない。彼に嫉妬していたにも関わらずいまでも私は何ひとつ成し遂げていないことを彼は知らない。肝心なのは、私が何を思いどう過ごしているかなんてことは彼はもちろんのこと誰もこれっぽっちも知りたくないということだ。

セックスをしたことのない人のことを言い表す方法はさまざまなのに、1度でもセックスをすると「セックスをした男子」でしかなくなってしまう。私のなかで彼との関係性はそんなもんじゃないと思うけど、この思いは世間に通用しない。才能豊かで文章がうまく、プライドが高く、誠実で、シンプルなものごとをわざわざ複雑化させてぐちゃぐちゃとこじらせている彼のことを心から尊敬し、いとおしいと思っていた。それなのに「セックスをした男子」ということばからは、私の彼への愛がまったく伝わらない。「セックスをした男子」と表現しなければいいけれど、セックスをしたことがあるのに「セックスをした」と表現しないのは、秘密を隠しているようなうしろめたさがある。それほど、「セックスをしたか・していないか」というのは人との関係性を語るときに重要な事項であり、人々はそれを社会的観念のなかで認識している。
「彼とは仕事をしたよ、2~3回。すごく信頼できる人なんだよね」というのは自然だけど、
「彼とはセックスをしたよ、2~3回。すごく信頼できる人なんだよね」というのはおかしい。セックスはプライベートなことで、社会的な信頼やら仕事の成果やらなんちゃらに結びつかないから。
彼にとって私は「セックスをした年上の女の人」だろうか。
彼には幸せになってほしいと思う。なんだか私はいつも人の幸せを祈っている。私が祈ったところでその人の人生が変わるわけではない。退廃的な気持ちになって、退廃的なことをしたくなった。
そういえば彼もaikoが好きだった。

渋谷Bunkamuraで、フランスの写真家ロベール・ドアノーの写真展。
戦後の幸福感にあふれるパリの音楽シーンを切り取った写真で、流しのアコーディオン弾き、人々が口ずさむシャンソン、酒場のジャズ、アーティストたちがうつしだされた写真からは日常に流れる音が聞こえてくるようだった。

小さいときに、ヴァイオリンを習った。
耳は少しも進歩しなかったが、目は鍛えられた。
こうして、私は写真家になった。――ロベール・ドアノー

記録は熟成する、と信じる私にとって、この新しいモンパルナスの撮影は非常に重要なものだ。――ロベール・ドアノー


1回行ってとても良かったので、翌々日にも行った。2回目は1か月前に知り合って仲良くなった男性と行った。
「こういう経験をしているこういう男性がいたら好きにならずにはいられないだろうな」というような人で、当然好きになった。話がしやすく、若い人に教える仕事をした経験があり、言葉に力があり、人の懐に入り込むのがうまく、バイタリティがあり、私のようなちょっと世間からズレてる人間への耐性もあり、女性経験が豊富で、目で願望を伝え合うことができた。そして、声がすごくタイプで私のMっ気を刺激した。
ふたりで飲みに行き、「近いうちにセックスをするだろうな」という予感がして当然そうなった。人間は、なにかに迷った瞬間にはすでに自分の中で答えが出ているという。彼に会い、話をしたそのときから、私は彼とセックスをすることを決めていた。「このまま飽きるまでヤリまくるかもしれないな」と思ったけれど、そうはならなかった。彼に「仲良くなりすぎた。これ以上は沼にはまる」とストップをかけられたから。同じ歳の彼は、私と同じかそれ以上に多くの女性経験・恋愛経験があり、人間の欲望に関する素養のレベルが同じだった。しかし世の中を生き抜くための方法を知っていて実践できるという点で私よりもとても賢く、そんなところにも安心感を覚えてしまうのだった。
ただし、彼が考えているほど私は素直な人間ではない。人に正しいことを言われれば言われるほど、それに抗いたくなる。彼の言葉はすべて正しいけど、正しいことってつまらない。彼の期待を裏切りたくないという気持ちはあるが、なんかそういうのって嘘っぽくて気持ちが悪い。傷つきながら地獄に落ちるほうが人間的だなと思う。愚かでもいい。
一方、彼につまらない発言をさせた責任は私にあり、私はそれを自覚しなければならない。彼の友人として。彼と関係を築くためには、社会的な正しさが必要だし、もちろん私は彼を傷つけるつもりはない。
傷つけたくはない。そう思っていても、行動や発言によって傷つけることがある。これ以上近づくと彼を傷つける可能性が増す。シンプルだ。
彼とはよく、川で逢瀬を重ねたけれど、そんなことももうないだろう。

一刻と 表情を変える 水の景
夢中で撮ってるキミを捕える 


私というレンズさえ通さずに、そのままのありのままの姿を見れたらいいのになと思う。自分本位の都合のいい解釈をしてわかったふりをしたくない。ただ、感じていたい。でもそんなことすら思い込みかもしれない。

 

私にこれだけ多くの写真を撮らせたのは、生き延びるための反射的本能だったのだろうか? おそらく、消え去るイメージを所有したいという欲望だったのだろう。あるいはもっと単純に、この世界に生きている自身の喜びを刻み、明快な形にするための方法だったのかもしれない。――ロベール・ドアノー

見た人に物語の続きを想像してもらえるような写真が撮りたい。――ロベール・ドアノー

写真を撮るために狩りはしない。ひたすら待ち伏せをするだけだ。――ロベール・ドアノー